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産前産後ケアルームともこさんちができるまで

こんにちは????ともこさんち青木智子です。

今更…ほんとに今更ですが、ともこさんちの紹介してないじゃないか!と急に思ってしまいました。今日はともこさんちができるまでのお話をしたいと思います。

悩み続けた勤務時代

私は20年近く病院で助産師として働いてきました。その間自分も出産子育てをして、結婚も離婚も再婚もして、なんとも忙しく過ごしていました。「助産師なんだから新生児よゆー????」と思って始めた育児は、まったく余裕などなく、泣き止まない我が子と共に部屋に閉じこもること3か月…。なんとか外に出始めてやっと慣れてきたかな?という頃には仕事復帰で3交代勤務が始まりました。夜泣きで毎日寝ないまま仕事へ行く毎日でした。

産休中に家事を自分が請け負ってしまったため、今更夫にも負担をかけられないと頑張っているうちにすべてが嫌になり、今まで笑って許せていた夫のわがままひとつひとつにイライラし、喧嘩も絶えず、離婚。シングルマザーとなり、夜勤ができなくなり保健師の仕事へ転職。そこで今まで出産に携わってきたママたちの産後の戸惑いを目の当たりにして、「私、入院中何をケアしてきたんだ…」と自己嫌悪に陥りました。

そんなころ今の夫に出会い、子供ともよく遊んでくれて、家事も手伝ってくれて、自分にも余裕ができてきました。

ある日子供から「ママ、おさんしたいでしょ?びょういんではたらいてもいいよ????」と言われました。そんな風に思ってくれていたのかと感動して、再度病院助産師に戻りました。「今度こそ、ママたちがおうちに帰ってから困らないような援助をするぞ!」と意気揚々と現場に戻りましたが、現場の激務に思うようなケアができず、悩みは尽きませんでした。現場を変えるなんて無理なのか?・・・という思いから、働きながら大学院へ。何かヒントがもらえるのではと藁をもつかむ気持ちでした。

大学院では同じ気持ちを抱えた助産師達が集まっていました。みんな「より良い助産ケアをするためには現場で何をしたらいいの?」と悩んで大学院にたどり着いていました。結局明確な答えが出たわけではなかったですが、2年間色々な外部の助産ケアと触れ合えたことで、私の中で「何もできないわけじゃない。ひとりひとりが正しいと思うことを始めればいいんだ。」という思いがうまれました。

その後ゆっくりと関わることができる現場に行きたいと、赤坂の山王病院へ。個室管理で、受け持ち患者様も一般病院の半分、分娩も1対1、何より産婦人科単科病棟というところに惹かれました。八王子から青山まで通勤ドアtoドアで2時間。往復4時間。通えるのか不安でしたが、慣れるもので何とか勤務することができました。初めて関わった無痛分娩も、今までの自分の助産感が変わるものでした。関わるまでは自然がいいという気持ちがどこかでずっとありましたが、選択肢として無痛分娩や和痛分娩があることで、こんなに笑顔の出産ができるのかと驚きました。麻酔の管理がしっかりできていたら、こんなに素晴らしい分娩体験ができるのだと実感しましたが…そのお話はまた今度。

でも、やっぱり5日間では産後のことをお話しするのは難しい。産後数日はママも疲れているし、何より病院のペースで過ごしていただいているのにあかちゃんのペースで家族でどう過ごすのか見えないまま。パパに会えるのも一瞬。やっぱりもっとゆっくり関わりたい。そう思い作ったのが「ともこさんち」でした。

新しい形の産前産後ケアを作りたい!

私がずっと思っていたこと。それは「母子ケア」という言葉への違和感でした。出産は確かにママがするもの。でも、世の中「母親学級」が「両親学級」へ変わり、共働き夫婦が増え、イクメンという言葉もでき、夫婦役割の変化が起きているのに、母子でひとくくりにするのはどうなのかと。母子ケアを続ける限り、男性は自分で関わり方を見つけなければ入り込めないのではないか、と感じていました。

家庭の中での軸は「夫婦」であるべきで、「母子」ではないです。夫婦の間に子供ができ、育って、巣立ち、また夫婦に帰る。それが自然な形なのではないかと思います。とはいえ、自分も育休中は「私と子供」で生活していて、夫の役割は「仕事」と考えていましたし、自分が復職後急に「父と子」を残していってもできるわけもなく。まぁ失敗したわけですが。失敗したからこそ気づくこともある!

私は子供が産まれても「夫婦」メインで考えなければいけなかったのに、「子供」メインであくまで夫は「子供のパパ」でした。夫も徐々に私は「妻」ではなくなり、「子供のママ」になりました。そのため、あの頃は子育てがうまくいかないのであれば夫はいらないとまで思っていました。はい。本末転倒です。夫もそれを感じていたのかもしれません。当時はまだ産後クライシスという言葉もありませんでした。あっという間に夫婦関係は破綻しました。

その後色々勉強を続けるうちに、「私の失敗は私だけに起こっていることではないんだ」と気づきました。何故、こんな風になるのがわかりきっているのに、「母子」セットでケアしているんだろう。産後ケアは「子育て」ではなく「家族づくり」を学ばないといけないんだと強く思いました。

産後ケアが国に推奨されていますが、まだ「母子とその家族」のための援助と言われています。その意識改革をしたい!!と話しているうちに、賛同してくださる方が徐々に集まってくれました。「ないものは作ればいい。」ということで、起業することにしました。

産前産後ケアを作る壁

そういったって、私もまだローンも育児もあるし、貯金は大学院行ってそこをついているし、お金がない。

ということで、借り入れを申請に政策金融公庫へ。創業セミナーでも、周囲の人でも「いいよね。必要だよ!作ったほうがいい。」と言われるのですが、なんといっても産後ケアという職種がないため、審査がなかなか通りませんでした。建物を建てて・・・という大金はもちろん借りることができないので、賃貸物件で始めようと思ったのですが、そもそも物件も見つからない!!

不特定多数が泊まる、子供が泊まる、という時点で不動産会社さんに断られることが続きました。どんな形なら思うような施設にできるのか試行錯誤でした。そんな中ぴったりの物件が見つかり、大家さんが「又貸しもいいし、店舗もいいですよ」と言ってくださったため、2部屋お借りして片側を家族生活スペース、片側をデイケアとスタッフ待機ルームにすることにしました。

公庫さんに「わかるけど、いいことしていることもわかるけど、それは公的機関がやるべきことだし。個人でやってやれるの?」と2時間くらい面談を受け、「じゃ、できる限りの金額を何とかやってみますけど、多くは出せませんよ。それでもやります?」と言われ「やります!!貸してください!!」とやっと貸していただけました。

まずは第1歩を踏み出せた。あとはゆっくりでも前進するしかない。そう思い始まりました。たくさんの壁を小さな穴を掘って進んできたので、もう後ろは見えない感じです????

たくさんの仲間たちに支えられて

私の強みは、周りのみんながいい人しかいないことです。私は幼いころから酷い人がほとんど近づいてこないし、みんなが手を差し伸べてくれます。「なにかあったら手伝うよ」と言ってくれて、お返しなんてできてないのにみんなが協力してくれて。そのおかげでここまで来ることができたし、それが無かったら形になんて絶対にならなかったと思います。

私にできる恩返しは、いいケアを多くの方に届けることだけです。いや、気持ち的には10倍返ししたい。ただ、今できるのは私が培ってきた助産技術の提供しかないので、まずはしっかりと土台を作りたいと思っています。

日本の明るい未来のために

少子高齢化問題、保育園問題、育休問題、若年介護問題、老老介護問題。

日本にはまだまだ解決しなければならないことがたくさんあります。でも、その核にあるのは「家族」です。家族の集合体が地域であり、社会であり、国になります。

家族の核をしっかり作るためには夫婦、パートナーという対の二人がしっかりとつながる必要があります。対の愛情が集まることで、大きな愛情になっていくのだと思います。

シングルがいけないとか、足りないというわけではありません。1人でも子供を立派に育てていらっしゃる方がたくさんいるし、夫婦でいる方が愛情より憎悪に包まれてしまうという家族もいると思います。

ただ、すれ違いそうな方に手をちょっと差し伸べるだけで愛情が戻ることもあるんです。手遅れになる前に、早めに家族関係づくりをしておくことで、今まで以上の愛ある家庭を作ることができます。

子育ては一人では絶対にできません。夫婦揃っていても、それに加えてさらに他の援助がないとすぐにつらくなってしまいます。24時間365日親をやめることはできないし、忘れたくてもすぐに気持ちが子供に向いてしまいます。

なので、夫婦で一緒に笑って、泣いて、悩んで、助けてもらって、子育てをしたらいいのだと思います。夫が手伝ってくれるとか、くれないとかもどちらでもいいんです。二人で「今の生活」を「感じる」ということが一番大切です。感情の共有ができる相手がいることはとても素敵なことです。その先には今まで感じたことのない幸福があります。そしてさらにその先には、愛にあふれた日本が、世界が出来上がると信じています。

全ての方が笑顔で毎日を暮らせますように????

 

男性も、女性も、子供も、大人も、泣きたいときや悩んでいるときは一人で考えずにいつでもご連絡くださいね!「ともこさんち」はそのためにあるのだから。みんなで一緒に考えましょう。必ず、解決策はあるはずですよ。

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